そして京都にはこの御霊を鎮めるための神社や寺院が数多く存在し、中でも有名なのは上御霊神社」と「下御霊神社」です。
その後月日は流れ、菅原道真の怨霊騒ぎから12年が経過しようとしたある日、西京七条二坊(平安京の西の端っこだと思ってください)に住む貧しい家の娘「多治比文子(たじひのあやこ)」の枕元に菅原道真の霊が現れ…しかし頼まれても貧しい身分の者には右近馬場に祠を建てるなどできないので、とりあえず自分の家の庭の片隅に祠を建てて菅原道真を祀ることにします。(942年)そしてその5年後、今度は近江の国(現在の滋賀県)の神社の息子「太郎丸」にも「多治比文子」と同様のお告げがあり、それを知って驚いた太郎丸の父親は右近馬場にある「朝日寺」の住職に事情を告げて相談し、「多治比文子」の家の庭にあった祠を右近馬場に移し、菅原道真を祀る社(やしろ)を建てます。(947年)この話を知った当時の右大臣「藤原師輔(ふじわらのもろすけ・忠平の息子)」はその社を増築し(952年)、これが現在の「北野天満宮(きたのてんまんぐう)」となります。
ただ今までの話からも分かるとおり、当初の「北野天満宮」は「学問の神様」としてではなく、「御霊」「雷神」として祀られておりました。
つまり北野天満宮や太宰府天満宮は菅原道真の御霊を鎮めるために建てられた神社ってことです。
しかしその後の986年、「慶滋保胤(よししげのやすたね)」が北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神を以て文道の祖、詩境の主」と語り、またその後の1012年、当時の文章博士「大江匡衡(おおえのまさひら)」が同じく祈願文の中で「文章の大祖、風月の本主」と言った事から、この後、菅原道真は「雷神」ではなく「学問の神様」として祀られるようになったんだそうです。

 

 

 

 

 

当時の京都の様子