11.南北朝動乱と貞孝国造

 第56世国造貞孝臣の在職中は、南北朝の争いの真最中でした。南朝・北朝その勢力は一進一退でしたが、興国4年(1343)の末より正平に及ぶ間は一時南朝がその勢力を回復し、
足利氏の内部では兄弟叔姪(しゅくてつ)の不和が原因でその勢力は弱まっていました。この時代、足利直冬は南朝の味方となって石見の国から伯耆の国に入り、山名時氏と手を結び、
正平9年(1354)出雲の北朝党を攻略いたしました。この時、貞孝国造は南朝に味方しましたので、同年9月10日、直冬よりそのお忠節を賞する書状を受けております。
また、正平12年(1357)正月、貞孝国造は目安言上書を奉って、御村上天皇より下記の3通の綸旨(りんじ:天皇の命を受けて蔵人が書いた文書)を授かり、
後村上天皇は出雲大社の御造営並びに三月会のことを貞孝に仰せ付けになっています。

(1)杵築大社仮殿御造営並びに三月会の事、奏聞の処、早く先例に任せその沙汰を致せしむべきの由、貞孝に下知せしめ給うべきの旨、天気候ところなり。
この旨を以て洩れ申せしめ給うべし、仍て言上くだんの如し、光資誠恐頓首謹言。
  正平十二年(1357)六月十七日
  進上丹後守殿                      右大弁光資奉

(2)杵築大社造営の事、先度注進に就き、貞孝に仰せ下すべきの旨仰せらるの処、今左右を申さず、何様の事や。造営延引に及ぶの条、はなはだ以て然るべからず。不日遵行(じゅんぎょう)
の沙汰を致すべし、てへれば、天気かくの如し、これを悉(つく)せ以て状す。
  正平十二年九月十八日            右大弁(葉室光資)(花押)

(3)杵築大社造営の事、重ねて守護に仰せらるるところなり。急速その沙汰を致すべし。てへれば、天気かくの如し、これを悉せ以て状す。
  正平十二年九月十八日            右大弁(葉室光資)(花押)
  北島六郎(貞孝)館

 このように3通の御綸旨をお受けはしたものの、当時は南北朝動乱の世情で造営のことは実現しないで後代のこととなります。しかし、これらの御綸旨は、
貞孝国造が出雲大社並びに南朝に忠節であったことを証するもので、北島家もこれを家宝として今もその精神を大切に継承するものであります。なおこれら3通の御綸旨はいずれも重要文化財で、
村田正志編『出雲国造家文書』に収められています。

出雲大社北島国造家の歴史11