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諏訪大社に祀られる建御名方神

御柱祭で知られる信濃国一の宮諏訪大社は「延喜式神名帳」には「南方刀美神社」として揚げられている古社です。
建御名方神と妃神の八坂刀売命の二神を祀っています。全国各地にある諏訪大社の総本山であり、国内にある最も古い神社の一つとされています。諏訪湖の南側に上社として本宮・前宮の二宮があり、北側に下社として春宮・秋宮の二宮が有り、四の宮から成り立っています。それぞれの宮の四隅には「御柱」と呼ばれる柱が立てられていて、合計16本の御柱が7年目毎に立て直されています。その新しい神木の切り出しから立て直しまでの祭礼が勇壮な「御柱祭」です。

諏訪の侵入神である建御名方神

建御名方神が諏訪に入った時この地には、古来より諏訪地方を統べる神がいました。建御名方神と争いになり、戦いは建御名方神の勝利に終わり、敗北した土地神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、支配下に入りこの地方の開拓の協力者になったとの伝承が伝えられています。建御名方神は元々土着の神とか、伊勢から来た神とか諸説はありますが、出雲から建御名方神がこの地に訪れて、この地方の開発事業に功績を残した事により厚い信仰を集め今日まで至っています

御籠祭

御籠祭は、古くから行われてきた祭事で、毎年11月3日の夜、摂社の諏訪神が生島足島神社の本社へ移り、毎週御粥を炊いて生島足島神に献供される儀式で、翌年の4月13日まで続く神事であります。
七夜ごとの24回と12月31日・1月14日の計26回行われています。

建御名方神の旅の行く末

出雲を追われた建御名方神が、諏訪まで追いやられたとしたら、どのようなルートを行ったのでしょうか。出雲の足跡は因幡から丹後・若狭へ行き越の国へと続いています。そして海路でさらに北上し信濃川を遡ったか、糸魚川近辺から陸路を取ったかです。
確かな伝承は残されていませんが、石川県羽咋市から七尾にかけては大国主神にまつわる伝承は豊富です。出雲系の神々を祀る神社も多い。羽咋市にある「志乎神社」、七尾にある「気多本宮」には建御名方神も祀られています。新潟県上越市に行くと、「居多神社」では、大国主神と奴奈川姫と並び建御名方神が祭神として祀られています。諏訪へ向かう途中でも伝承が残されていました。「生島足島神社」の由緒書には、「神代の昔、建御名方富命が諏訪の地に下降する道すがら、この地にお留まりになり二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられています。この故事は、現在も「御籠祭」という神事として残されています。

建御名方神を祀る出雲の神社

銅剣・銅鐸などが大量に発見された斐川町の荒神谷遺跡周辺に「諏訪神社」がありますが、何でも後の時代(南北朝以降)に勧請されたようで出雲における建御名方神に結びつく伝承は、残っていません。奥出雲には、「建御名方神神社」がありますが、は、王子権現と称していたものを改称したものです。唯一建御名方神に繋がる伝承を残している神社は、斐川町にある「鳥屋神社」だけです。

建御名方神とは

この名前は、古事記だけに登場し日本書紀には出てきません。越の国の伝承では、大国主神と奴奈川姫との間の御子神、という伝承が各地に残されています。しかし、古事記のは建御名方神の母神のことには全く触れていません。出雲国風土記には、二神の間の御子は御穂須須美命であると伝えていますが、建御名方神のことには触れていません。しかし伝承を追っていくとかなりの実在性を感じさせます。

信濃国の大国主神

出雲から日本海沿岸を北上し、越の国の信濃川を遡上するとそこは信濃国。出雲との接点は大国主神の御子、国譲りの談判の際唯一高天原軍勢に抗った建御名方神を介してものだけです。稲佐の浜での戦いに敗れた建御名方神は、日本海沿岸から信濃国諏訪へと追いやられた末降参したとのことです。この話には、どのような裏付けがあるのでしょう?

神仏習合・本地垂迹

神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったといいます。
仏教の伝来は538年、あるいは552年ですが、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られています。仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。これも良く知られています。
ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にありますね。それで、やっぱり100%仏教とは行かなかったようです。そのほかの人々も同様だったのでしょう。なにせ、貴族も豪族も、みな、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたのですから。
そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方でした。その一番手が八幡神だったそうです。八幡神は応神天皇のことだといいます。八幡様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなったようです。つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけです。
もっともこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げたということでもなくて、法華経にその根拠を求めることができるといいます。それに、仏教自体がヒンズー教から沢山の神を入れていましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないでしょうか。一方、神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐す(います)だけ、ということでしたから、さほど気にはならなかったのかも知れません。
本地垂迹説とはこういうことなんですが、これはうまく考えたようにも思えますが、どこかご都合主義的です。明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、本地垂迹説も消滅しました。(メキラ・シンエモン)

山岳信仰と大国主神

大国主神の足跡を辿っていくときに不思議な符号がある事に気付きます。各地で見てきたその土地の開拓・平定の事跡が語られていること。
白山のような名だたる高山に大国主神が祀られていることが多い事。白山がそうであったように、山岳信仰は後世修験道との結びつきを強めていき神仏習合の場になっていくので、その時期ははっきりしません。大山・立山・白山そして出羽三山まで山岳信仰に結びつく日本海側の山々で何故大国主神が共通で祀られているにかについても考えなくてはなりません。
日本海を船で往来する航海者達にとって目印の山々であり、出雲の勢力が日本海沿岸を伝って北に勢力を広げる過程でその山々に大国主神を祀っていったのではないのでしょうか。

菊理姫神社

七尾市若林町には、「菊理姫神社」があります。菊理姫を祀る神社は、白山系が多くその殆どが「白山神社」と称していますが、菊理姫を冠した神社は他にもあるのでしょうか。?古い社伝には、何も伝えていませんでしたが、神社の境内由来書には、「スサノオの命の妃奇稲田姫を大国主神の母神として奉斉しているそうです。」大国主神との関連で出雲の神が祀られている
とすれば、もしかすれば、出雲人か出雲崇拝者が大国主神に近い存在として菊理姫を祀ったとも考えられます。

大国主神の足跡

海岸に近い白山から奥地に入り富山市の旧山田村に行くと、牛岳の頂上には牛嶽神社の奥の宮があり、大国主神がお祀りされています。この山の麓の山田地区には多くの牛嶽神社が点在しています。「越の国を平定した大国主神が、出雲の国に帰る前に此処で乗ってきた牛を放牧した。それで牛嶽という名前がついた」という伝承が残されています。
出雲の勢力がこの地に及んでいたこと思われます。

大汝峯・大汝神社

白山比咩神社の奥の宮がある白山に連なる白山三峯のひとつ、大汝峯の頂上に大汝神社があり大国主神が祀られています。
大汝は大己貴神、即ち大国主神のことで、その名を冠する山に大国主神が鎮座し、菊理媛が祀られる白山に寄り添っています。
大国主神の足跡がこの地にも残されていました。

加賀国一宮白山比咩

この菊理媛ですが、加賀国一の宮白山比咩神社の祭神「白山比咩」と同一神とされ、全国に展開する白山神社の祭神としてお祀りされています。白山を御神体とし、「いのつの祖神」と仰ぐ白山比咩を奉斉し、イザナギ命、イザナミ命との三神で祀っているそうです。菊理媛は何者かは良く分かりませんが、協調して判図を広げるために我が出雲の大神は、足を踏み入れたのでは無いでしょうか。

白山比売神社・菊理姫

この地域に登場する神話の上の女神は菊理媛と言います。この媛は日本書紀に一度だけ登場する女神で、由緒ははっきりしませんが、イザナギの命が
黄泉の国にイザナミ命を訪ねた折、結局逃げ帰る場面でチラッと登場します。二神が黄泉比良坂で決別の争いをしているときに登場し泉守道者(黄泉国の番人)が「一緒には帰れない」というイザナミ命の言葉を伝えた後に一言イザナギ命に何かを言った事になっていますがはっきりとは伝えられていません。

お熊甲祭り

毎年9月10日に行われるこの祭りは、七尾市中島にある久麻加夫都阿良加志比古神社の大祭です。
渡来系と思われる阿良加志比古神を祭神として祀り、越後国一の宮気比神社でも祭られている新羅系の渡来神渡来神都努加阿羅斯止神を配祀しています。町内の各集落に鎮座する19の末社から神輿が繰り出し、猿田彦の先導で、高さ20㍍の深紅の大枠旗やお道具を従え「イヤサーカサー」のかけ声と鈴や太鼓の音も鮮やかに、本社に参入し、拝殿に全神輿が参入し、奉弊式では若い衆が鈴や太鼓を打ち鳴らしそれに合わせて猿田彦が境内一杯に乱舞します。祭典後は本社の神輿を先頭に境内から少しだけ離れた御旅所である加茂原へ移動し、「お練り」が行われ、時計と反対廻りに3回廻ります。「島田くずし」と呼ばれる大技も披露される勇壮な祭りです。

 

北陸における出雲勢力

考古学的観点から見るとこの地に四隅突出型墳丘墓が点在していることに注目されます。四隅吐出型墳丘墓とは、弥生時代中・後期に山陰地方によく見られます。山陰地方でよく見られる墳丘墓で、方墳の四隅突出している独特の形式のものです。
島根では、出雲市の「弥生も森」西谷墳丘墓群や安来市の荒島墳丘墓群が有名です。発祥の地はいまだ不確定ですが、最大級の王墓と思われます。それが時代たち鳥取県の妻木晩田を始め日本海沿いに北上していったことは、出雲勢力が伸張いった証と考えられます。この型の墳丘墓は若狭・丹後地区を飛び越して、また同地区は出雲系の神々を祀る神社も少なく考え合わせると天皇家に匹敵する「海部氏系図」を伝える伝承を伝える籠神社にまつわる拮抗勢力が存在していたようです。

国土開発協力者 少彦名命

平国祭の立ち寄り処である宿那彦神石神社の祭神少彦名命が巡回に同行すると言うことは、古事記に大国主神の国土平定や、国土経営の協力者として少彦名命が記されていることは、大変興味深い事です。
中能登の能登生玉比古神社の社伝によれば、「当地の伊豆目日売を妃とし菅根彦命を生んだ」と、この地に子孫を残した事も伝えています。

平国祭(きにむけさい)

能登の国残る大国主神の国土平定にまつわる伝承です。この周辺は後に朝鮮半島からの渡来人達が、お祀りしたと思われる韓神神社が多く見られます。朝鮮半島との密接な関係がうかがえますが、それよりも以前に進出して来た、出雲の勢力の痕跡が色濃く残っています。羽昨市にある能登国一の宮気多神社の平国祭(別名おいで祭り)があります。毎年3月の後半に行われるこの祭りは、羽昨市の気多神社から繰り出し、神輿と騎馬の大行列が5泊6日を掛けて七尾市の気多本宮との間を往復するという祭りで、神輿に乗るのは気多本宮の祭神、大国主神です。2市2郡300㌔の行程を、途中100ヶ所以上の神社と招待家に立ち寄りながら気多本宮まで行き、神事を行った上戻るというお祭りです。注目は、途中立ち寄る神社の中に宿那彦名神石神社があります。そこで1泊した後、当社の祭神である少彦名命を同行して気多本宮に向かう事です。まさしく出雲から来た神々の
お祭りです。

越の国の大国主神

日本海沿いに北陸に延びる大国主神の足跡。越の国、能登現在の石川県に残る伝承と出雲との関係について考えてみましょう。
古事記には、この地域に関連する記事は、記されていません。また、出雲国風土記にも「古志郷」の地名由来説明で、「日淵川で池を造ったとき古志の国等が来てくれて堤を造ってくれた。この時、古志の国等が住んでいたので古志という」と記載されているだけです。その記述だけでは、古志の国人は、それだけでは、何処からやって来たのか特定出来ません。
しかし、この地には日本海沿いに大国主神をお祀りする神社が点在しています。その社伝から大国主神を初めとする出雲の神の伝承を伝えており、出雲との関係が、浮かび上がります。

 

翡翠を求めた娶いだったのか

この恋愛話の意味するところですが、古代の結婚が政略結婚であり征服、服従関係のなりたちであると考えると、大国主神
は、何を求めてこの地にやって来たのでしょうか。越の有力者の娘、奴奈川姫を娶って勢力を伸ばしてきたと考える図式が思い浮かんできます
そして求めたものは、翡翠だったのです。そして娶りが思いもよらず日数が掛かったことや、姫が頑なに出雲行きを拒んだと言う伝承は
この地の持つ特殊性から、ある程度我を張るだけの力を持っていた証では無いのでしょうか。
翡翠という貴重な資源を持っていたことで、納得出来ます。出雲大社の直ぐ近く社家通りの山側に真名井遺跡があります。
ここから、銅戈と共に立派な翡翠の勾玉が出土しています。出雲大社の境外摂社である命主社の直ぐ隣に位置し大国主大神を
死から救った神産巣日神を祀った社の側から素晴らしい翡翠の勾玉が出土している事は、大変に意味深いものがあると思います。
大国主神と奴奈川姫との恋物語は、実は出雲が翡翠の産地と交流していたことを語っていると思います。

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