13.寛文御造営にともなう屋敷替え

第66世恒孝(つねのり)国造が承応3年(1654)に国造職に就任された時代は、日本の政権は織田、豊臣を経て徳川氏に移り、出雲の国も徳川家康の孫、
松平直政が藩主として善政を敷き、名君として大衆から信頼されていた時代でした。
この直政公は生来敬神の念が厚い方でしたが、寛文年間に徳川幕府に出雲大社の正遷宮を進言してこれが幕府に入れられ、官銀50万両(現在の通貨では約200億円相当)
を以て御造営がなされることに決定しましたが、直政公はこの御造営の好機に境内を拡張しようと計画され、それまで出雲大社の御本殿の裏、八雲山の麓にあった出雲国造家の屋敷を、
吉野川の東に移転するように恒孝国造にすすめられました。恒孝国造は熟慮の結果、境内拡張という大義のために直政公の屋敷替えの申し入れを承諾されました。
このことが決定したのは寛文2年(1662)8月15日であったことが、下記の直政公の家老塩見小兵衛から恒孝国造に宛てられた古文書によって明らかであります。

 今度その御社御正殿御造営仰せ出され候に付、御宮の後地田を詰めるを以て、自然の火難如何に候の間、貴様御屋敷を御宮の左東の方へ御替え成され然るべしと、直政公思し召し、
絵図を以て、井上河内守殿・加々爪甲斐守殿へ御相談遊ばされ候処に、一段然るべきの由、各御儀定成され候。もっとも公儀より御普請仰せ付けられ遂げらるべく候。
往古よりの御屋敷をこの節居替成され候事、御宮地に成り、御宮永代のために御座候へば、御名誉の至りに候、目出度く存じ奉り候、なお御両使に演説さすべく候、恐惶謹言。
  寛文二寅                    塩見小兵衛
  八月十五日                     屋成(花押)
国造北島殿

 以上の結果として、出雲国造家は寛文4年(1664)12月13日、八雲山々麓の旧宅から現在の亀山々麓の新宅に移転しました。
 なお、直政公『御社参日記』の寛文4年5月5日の条に下記の如く記されているのは注目に値します。
 「太守公御社参の間と云々、それより御造営の御物語のついで、恒孝へ大事の屋敷おしく候はんに、御替候の新地の儀御望みのままに奉行共進すべく候間、御心安かれと御意を成され候。
恒孝御神剣御持参し御頂戴成され候と云々」
 この記事から直政公の出雲大社の境内地拡張の強い希望が感じられる一方、恒孝国造が出雲大社のことを第一に考え、私心を離れて直政公の希望に応えられたことを知ることができます。
 この寛文の御造営こそ現在の出雲大社銅鳥居内の規模であり、「御本殿」「境内摂社」「十九社」「楼門」「八足門」「玉垣」「瑞垣」「荒垣」等は、その後、延享の御造営、文化、明治、
昭和のお屋根替遷宮のとき改築或いは修理が行われましたが、大きな変化はないようです。寛文の御造営が出雲大社にとって大切なことは、神仏習合の慣習を一新し、その建物を全て古式に復し、
神宮寺を廃し、境内の仏教施設を他の地に移すなど、その精神は復古、即ち神道古来の精神に立って行われたことを窺い知ることが出来ることです。
 なお、この寛文の御造営で建立された拝殿、庁舎は昭和28年遷宮奉祝祭中の5月28日に失火により焼失し、そのあとに現庁舎、拝殿が建立されたことを申し添えておきます。

出雲大社北島国造家の歴史13