隠岐の国は中世以降、常に外部圧力によって支配され続けていました。江戸時代には幕府の天領に
なり、松江藩預かり地として松江藩の郡代の支配下にありました。
1867年、隠岐出身の在京学者中沼了三の影響を受け尊王攘夷論が支持され、郡代を島から
追放し松江藩の支配を排除しようとする気運が高まりました。
明治4年ついに神官に先導され庄屋達が集結し、郡代山郡宇右衛門を追放し、島民達の自治権を
勝ち取りました。
しかし、この自治政府は松江藩の反撃によって約80日で崩壊してしまいました。
これが廃仏毀釈運動につながって行きました。当時隠岐の島には99ヶ寺有りましたが、
ことごとく破却され、仏像や仏具は廃棄され堂庵のたぐいまで破壊され僧侶も還俗若しくは
脱走し以後島内には一寺もなく一人の僧侶もいなくなりました。

隠岐騒動