菅原道真の復讐劇が始まります。以下にそれらを紹介しますと…菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国(ふじわらのさだくに・藤原南家の人で『相関図』には載せてません)」
が40歳の若さで急死。(906年)菅原道真の左遷が決定した際、「醍醐天皇(だいごてんのう)」に直訴するため裸足で駆けつけた「宇多上皇(うだじょうこう)」の行く手を阻んだ「藤原菅根(ふじわらのすがね・藤原南家の人で『相関図』には載せてません)」が雷に打たれて死亡。(908年)菅原道真を左遷に追いやった張本人「藤原時平」の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか逆に蛇となった菅原道真に「控えよ!!」と一喝されて祈祷師はスゴスゴと退散してしまい、とうとう藤原時平は狂死。(909年)貴族達の集団職務放棄の中心人物だった「源光(みなもとのひかる)」が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。(913年)醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった「保明親王(やすあきらしんのう)」が21歳の若さで急死。(923年)保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった「慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)」が5歳で死亡。(925年)このような怪奇現象が続いたため、遂に朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるためにと、菅原道真を大宰府へ左遷するという詔に関係する全ての書類を焼き捨てますが、その火が周囲に燃え移って広がり、その場にいた僧侶や役人を焼死させてしまうという事件まで起こります。
その後も国内では疫病や干ばつなどが相次いで起こり、その干ばつ対策の会議中であった930年6月の午後1時頃、会議場であった「清涼殿」に落雷、大納言であった「藤原清貫(ふじわらのきよつら)」など5人の貴族・女官が
死傷するという事件まで起こります。

 

 

 

菅原道真公