須佐之男命と櫛名田比売が営んだ新居が起源のため「日本初之宮」と称され、また、その際に、歌を詠んだとされることから
「和歌発祥之地」ともされる。社殿脇から東北へ2㎞程は入ると、奥宮として磐座(夫婦岩)に対面できます。
新居造営神話
八俣の大蛇を退治した須佐之男命は、櫛名田比売との新居の宮を造るべき土地を探して出雲の各地を回る。
そうして須我の地に来たとき、「私はここに来てすがすがしい心になったと」と語り、新居となる日本で初めての
宮殿を造り住まわれたという。宮を造り始めたところ、美しい雲が盛んに立ち上がったのを見て、
「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣造る その八重垣を」と歌を詠まれた。
これが日本最初の和歌だと言われています。

神社由緒
古事記(和銅五年、西暦七一二年)所載=肥河上(ひのかわかみ)で八俣遠呂智(やまたのおろち)を退治せられた速須佐之男命は宮造るべき所を求めて此処出雲国須賀の地においでになり
「吾此地に来まして我が心須賀須賀し」と仰せになって此地に宮殿を御造りになりましたが其地より美しい雲が立ち騰がるのをごらんになり
 ”八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を”の御歌を御詠みになりました。即ち此宮が古事記・日本書紀等に顕はれる日本初之宮であり
此処が三十一文字和歌の発祥地でこの御歌の出雲が出雲の国名の起元であります。
而うして須佐之男命と奇稲田比売命・御子神清之湯山主三名狭漏彦八島野命の三神が当社主祭神であります。
出雲風土記(天平五年・西暦七三三年)では此処を須我神社・須我山・須我小川等の名に表現され風土記抄(天和三年・西暦一六八三年)には須我村とあり
須我は広く此の地方の総称であったことがうかがえます。
須我小川の流域に曽つて十二の村があってこの須我神社はこの地方の総氏神として信仰されていたものでありまた須我山(御堂山八雲山)の山ふところには
巨岩の夫婦岩(磐座)並びに小祠があり須我神社奥宮として祭祀信仰されています。
合殿の武御名方命は天文年中統治(淀之荘)地頭として神中沢豊前守が信州より来任せられたときその氏神武御名方命の神霊を勧請してこの須我神社に合祀し諏訪大明神として
崇敬せられました以来村名も諏訪村と改められていましたが明治二十二年元の地名の須賀に復し現在に至っています。明治二十五年十一月八日元の島根県社に列せられました。
なお須我山の主峰八雲山は眼下に中海や宍道湖を見おろし島根半島から弓ヶ浜東方遙かには出雲富士(伯耆大山)を望む景勝地で毎年秋頂上では盛大な歌祭りがあり四季にわたって
各地からの来遊が多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神話の舞台、須我神社