4.出雲大社神主職と検校職

 出雲大社国造家の長い歴史のなかでは、いろいろな危機があったと思いますが、これから記す事件は一番大きな危機でした。

 時代は平家が滅亡して源頼朝が幕府を開いた頃です。頼朝は平家との戦いに勝った有功の将士に恩賞として職を与えました。
そのときまで国造家の所職であった惣検校職(そうけんぎょうしょく:社寺の事務を監督する職)を、頼朝は文治2年(1186)5月第49世国孝房から取り上げ、
中原資忠の武功を賞してこれに与えました。こうした事情から、中原氏が出雲大社の神事を自ら行うなど、国造家と中原検校とは対立し、険悪になって行きました。そうした頃、
建久元年(1190)6月の出雲大社の御遷宮が行われましたが、孝房国造の訴えが入れられて惣検校職が還補され、孝房国造により無事御遷宮が斎行されたと伝えられています。

 しかしながら中原氏はその後も出雲大社神主職にとどまって、第49世孝房国造から第52世義孝国造まで、中原資忠と4代(その孫孝高、その子實政、その子實高)の間、
惣検校職をめぐる争いが続きましたが、ついに義孝国造の時代に中原氏の職は解かれました。惣検校職は国造家に還補されてその後は紛争も一切なくなり、
義孝国造は永年の弊を革新して中興の祖となられました。

 以上の史実は孝綱国造の拝受された建保2年(1214)8月付けの「土御門(つちみかど)上皇の院宣(いんぜん)」いわゆる新院庁御下文(おんくだしぶみ)、
また義孝国造の受領された文永2年(1265)3月20日付け「六波羅沙弥證恵の執達状」並びに建治2年(1276)2月付け「鎌倉将軍惟康親王御教書」によって知ることが出来ます。
なお、これら3通の古文書はいずれも重要文化財で、出雲国造北島家が所蔵しています。

出雲大社北島国造家の歴史4