5.建武中興と孝時国造

 第54世国造孝時臣は父泰時国造から国造職を譲り受け、延慶元年(1308)その任に就き、29年間国造職を勤められました。

 ちょうどこの頃の元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇は北条高時により隠岐に島流しの身となられました。しかし、後醍醐天皇は翌年の元弘3年閏2月の早朝、
深い霧に隠れて漁舟で出雲の国にご無事に着かれ、伯耆国の名和長年が天皇をお助けして、船上山に陣を敷かれました。そして、この船上山を仮の皇居として諸国に天皇自ら手紙を出され、
味方となる将兵を募集なさいました。

 この時、天皇方が戦に勝ち、政治が再び天皇のもとに帰ることを出雲大社に書簡をもって祈願されました。これが有名な同年3月14日付けの「皇道再興の御綸旨(ごりんじ)」であります。
この御綸旨(天皇からの御手紙)を受けた出雲国造第54世孝時は、ただちに出雲大社の御神前に真心を込めた御祈念をご奉仕いたしました。

 後醍醐天皇はその直後の3月17日付けで重ねて出雲大社に対し「社宝である剣を天皇ご自身がもらい受けたい」旨の綸旨をお出しになりました。

 このときも孝時国造は、天皇のご命令を謹んで受けられ、宝剣一口を献上されました。天皇は孝時国造の忠誠心を非常にお喜びになり、
同年4月11日付けの綸旨で出雲大社に対し国富庄(くんどみのしょう)氷室庄(ひむろのしょう)を御寄進になりました。このように天皇が御自ら努力を重ねられた甲斐あって、
国内各地で天皇に味方する兵士が立ち上がり、同年5月23日天皇は伯耆の船上山を出発され、6月4日には都にお帰りになりました。
こうしてかの建武中興の王政復古の偉業が成し遂げられましたが、この時、孝時国造のかつてのご祈請の効をたいへん感謝され、出雲大社への神恩報謝のお気持ちで、
建武2年(1335)5月26日、杵築大社(今の出雲大社)に肥後国八代庄(やつしろのしょう)を御寄進くださる御綸旨をお授けになりました。
この四通の御綸旨は出雲大社の社宝として大切に保管されていますが、これによって出雲国造家第54世孝時の後醍醐天皇に対する忠誠を知ることが出来ます。

出雲大社北島国造家の歴史5