隠岐国は古くから「遠流の地」として知られていました。後鳥羽上皇、後醍醐天皇、そして、小野篁、藤原千春、平の致頼、源義親等々沢山の流人が
居ました。流罪は、「追放刑」として、日本では古くから行われていました。そもそも流刑というのは、監禁では無く軟禁で、一定期間をたったその後は
その土地で、生活を営んでいます。流刑には「遠流」「中流」「近流」があり刑の重さによって都からの距離が変わっていました。
天皇や公卿を死刑では無く流刑としたかは、死刑にするには身分が高すぎる、罪人に対して政治的な追放の意味が込められていたようです。
追放という意味から他勢力からの隔離という考え方をすると、隠岐は海上の遙か彼方の離島であった事から流刑地として最も適していたと
いえます。

 

 

 

 

黒木神社

隠岐に何故天皇や公卿が流刑されたのか