さらに奥に進んで10畳二間続きの上段の間は、明治40年(1907年)大正天皇が皇太子のみぎり、山陰行啓にあたりご昼食を差し出すために 新築したもので、随行の東郷平八郎大将の揮毫により「飛雲閣」と命名されました。設計は当主の13代久右ヱ門黄雨自らがあたり、用材、調度品 なども東京、京阪神まで足を運んで調達するなど、心血を注いで完成に漕ぎ着けました。 欄間は、明治、大正時代に木象嵌の名手として知られた青山泰石の作。表に「舞楽欄陵王之図」、裏に「波に千鳥之図」と、ケヤキの一枚板に表裏 図柄を異にするところに泰石の特技が見られます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正天皇御便殿「飛雲閣」