弥生時代後期後半に造られたと考えられています。その規模は50㍍×40㍍で全国的に見ても最大級の弥生墓です。当時の出雲には強大な勢力を
持つ豪族がいたと考えられています。墳丘裾部には平らか河原石を2万個から3万個を敷き詰め、墳頂部には複数の埋葬施設が造られています。
埋葬施設には、大量の朱が敷き詰められ、色鮮やかな異形勾玉や鉄剣など多くの副葬品が出土しています。
出土した大量の土器の中には、吉備(岡山県)や越(北陸地方)から運ばれてきた土器もありました。こうした事を考えると、当時の出雲地方を支配して
いた王は吉備や越の勢力と盛んに交流していたと考えられます。また同じ時代に安来地方にも大型の四隅突出型墳丘墓含んだ墳墓群があります。
代表的な遺跡として、中仙寺古墳群や宮山墳墓などがあり、弥生時代後期の出雲は宍道湖を挟んで出雲平野を中心とする西部と安来平野を中心とする
東部に大きな勢力を持つ部族がそれぞれ存在していたようです。

 

 

 

 

王墓と呼ばれる西谷三号墓