その起源は、江戸時代後期の大名茶人として知られている松平不昧公の影響が大きいと言われています。

宝暦元年(1751)江戸生まれ。明和四年(1767)17歳で松江藩の藩主となり、出羽守治郷(はるさと)と称しました。18歳で茶道に入門し、19歳で禅の道に入ります。
「不昧」という号はこのときに授かります。不昧公が松江藩主になった頃、藩の財政は困窮を極めていました。倹約につとめ、財政の立て直しに力を入れました。

一方、文化人として名高かった不昧公は、その類い稀な美的センスで多くの功績を残しました。その中でもとりわけ茶人としての才能は一流であり、
石州流を学んだ後に自ら「不昧流」茶道を大成します。さらには、蒐集家としても有名だった不昧公は、多くの茶道具や古今の名器の収集を行い、
その収集品は「雲州蔵帖」と呼ばれ、一品一品に自らのランク付けをし、その研究成果を著作として残しています。

不昧公は、茶会に用いた数々の和菓子の記録を「茶事十二ヶ月」に残しています。そのいくつかは「不昧公好み」と呼ばれ、今でも松江を代表するお菓子として親しまれています。

晩年の不昧公は、自らの好みの茶室を作り、茶の湯三昧で過ごしたといわれています。文政元年(1818)隠居生活を過ごした江戸大崎にて68歳の生涯を終えています。
「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定され、アジサイ寺としても有名な「月照寺」には、不昧公の墓は天守閣を望む場所に建てられており、
歴代藩主たちと共に静かに松江城下を望んでいます。

この不昧公の茶人としての活躍を目にすることができたことが、茶の湯の文化が松江に深く根付くきっかけとなりました。

 

 

日常に根付いた茶の湯の文化のある松江。