嘉永3年(1850)6月27日ギリシアのレフカダ島(リューカディア)でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生れる。
2歳の時、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。
16歳のときに左目失明、父の病死、翌年に大叔母の破産など不幸が重なり退学。
19歳でアメリカへ渡り、24歳のとき新聞記者となる。
そして外国文学の翻訳、創作を発表して文才をみとめられハーパー書店の寄稿家となりました。
明治23年(1890)39歳のとき記者として来日。
その後まもなく、帝国大学(東大)のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となる。
ここでは、籠手田知事、西田千太郎などの知己を得たこともあって、松江の風物、人情が大変気にいった。
そして、武家の娘セツと結婚し武家屋敷に住んだ。
しかし、冬の寒さと大雪に閉口し、1年3ヵ月で松江を去り熊本第五髙等中学校へ移り、さらに神戸のクロニクル社、帝国大学(東大)、早稲田大学に勤務。
また日本の伝統的精神や文化に興味をもった八雲は、多くの作品を著し、日本を広く世界に紹介しました。
明治37年(1904)9月26日、狭心症のため54歳で逝去しました。
法名「正覚院伝浄華八雲居士」。

松江時代の行動歴

1890年(明治23年)
8月30日 汽船にて松江到着
9月2日 中学校へ初出校
9月13日 出雲大社訪問
9月14日 千家尊紀宮司と共に大社昇殿
10月下旬~11月中旬 京店織原方に転居
11月 一畑薬師参詣
12月2日 佐太神社参詣
1891年(明治24年)
1月中旬 風邪でしばらく床につく
1月下旬 セツが住み込み女中として世話にあたり、やがて事実上の結婚という関係に進展。
4月 中学校と再契約成立
5月10日 安来清水寺・雲樹寺うんじゅじ参詣
5月26日 普門院住職より橋姫伝説の怪異譚を聞く。
5月30日 来松した井上円了と行動を共にする。
6月22日 根岸干夫たてお方(北堀町315番地)に転居
7月中旬 玉造温泉を訪問
7月26日~8月10日 大社・日御碕方面へ旅行
8月14日~8月30日 伯耆・因幡方面へ旅行
9月上旬 加賀の潜戸くけどを訪問
10月26日 中学校で最終授業
11月15日 多くの人々の見送りの中、松江を離れる。
汽船で宍道へ熊本着は11月19日

 

 

 

 

 

 

 

☆小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生涯