「伊和神社」播磨国一の宮として宍粟市一宮町に鎮座し、祭神は通称伊和大神と言われ延喜式に「伊和坐大名持御魂神社」と記載されています。つまり大国主神であるとされています。「御方神社」兵庫県宍粟市一宮町森添に鎮座。御方の地にあ
天日槍命との争いのもとは「鉄」
名前に「ホコ」があるように天日槍命には製鉄との関連があり、「これは土着勢力と渡来系の製鉄軍団の鉄を巡る争いであったことが考えられます。」古代の鉄の評価では出雲産、播磨産が最も良質と言われています。安来市広瀬町「金屋子神社
渡来神との抗争
伊和大神と天日槍命がそれぞれ大軍を率いて戦った事が語られ、その時の天日槍命の軍兵の数が八千軍(やちぐさ)であったことからかなり激しい戦いであったようです。「御方」の地名由来ですが、「大国主神と天日槍命は山からお互い3本の
渡来神の侵入
「渡来神である天日槍命が宇頭川(揖保川)にやって来て、国の主である葦原志許乎命に泊まるところを求めたところ、葦原志許乎命は海上に留まる事を許しました。すると日槍は剣で海水を掻き回して島をつくりそこに泊まりました。 天日槍
伊和大神
播磨一の宮「伊和神社」に鎮座する伊和大神は、風土記の中ではただの「大神」として登場しますが、「出雲から来た」と表現され箇所もあります。出雲大国主神の異名の一つ、同一神とされています。伊和というのは元々地名であり、渡来の神
大国主神と少名彦名命
「二神の間でお互いに言い争い粘土を担いでいくのと、糞を我慢していくのと、どちらが先に行けるか」という話になり、大国主神は糞を我慢して行き、少名彦名命粘土を担いで行くことになりました。数日後、大国主神「私は我慢できないと」
播磨の開拓神、国主としての大国主神
大国主神と火明命 播磨国風土記には「乱暴者であった息子の火明命に手を焼いていた大国主神は、逃げようと企てます。 因達神山まで来たところで、火明命に水を汲みに行かせ、その間に船を出して置き去りにしました。 それに気がついた
古代の温泉
神代の時代から続く温泉を古湯と称して呼んでいますが、特に古いものを3カ所選んで日本3大古湯と呼んでいます。 判定の基準として二挙げられています。 1.日本書紀、風土記に基づくもの 道後温泉(愛媛県)有馬温泉(兵庫県)白浜
こんな所に出雲の影が?
延喜式にに載るこの地の古社は四社ありますが、その内出雲系は二社あります。この二社が祀られている地が、かつて出雲崗と呼ばれていました。このようなことを合わせ考えると、この地に出雲の勢力が影響を与えたことが考えられます。 温
湯神社
主祭神 大国主神・少名彦名命 配神 相殿(出雲崗神社)素盞鳴命、稲田姫命 由来 湯神社は人皇十二代景行天皇の御勅建で、大己貴命・少彦名命の二神を奉斎する名社です。 創建当時は鷺谷の大禅寺の前にあったといわれてい
伊予国風土記の大国主神
記紀にも出雲の国風土記にもこの地方に絡む伝承は残されていません。唯一伊予国風土記の逸文に大国主神と少彦名命の説話が載っています。 大国主神と少彦名命が伊予国を旅している時に、少彦名命が死んでしまいました。悔やんだ大国主神
大三島の大山祇神
日向神話で語られる大山祇神は、かなり強大な勢力を南九州にに維持していたようで、高天原から日向に最初に降臨した(ににぎのみこと)から3代続けてその娘を妃としています。これは、取りも直さず、初期の高孫族がその地の有力者の力を
伊予の海人族
四国の内海側の国々、島々には、南九州経由の南方系海人族や北九州を経由して流れてきた大陸系、朝鮮半島系の海人族の痕跡が色濃く残されています。一つは大三島に祀られている大山祇神系統と諸所にに点在する北九州の宗像三女神を祀る宗
伊予国の大国主神
出雲の南方に目を転ずると、古代出雲の国と深い関係がある吉備の国が存在します。 さらに瀬戸内の島々を東に行くと四国に行き着きます。大国主神の伝承と共に出雲の足跡が残されています。 伊予国です。 出雲の勢力はどうして海を越え
御柱祭
『古事記』に記述があるもので出雲のオオクニヌシが高天原から降ったニニギに国譲りを承諾したとき、ただ一柱反対したタケミナカタは武神タケミカヅチに追われることとなりました。結局諏訪湖畔まで逃げてきて降伏し、その際この地から出
建御名方神一族の信濃開拓
建御名方神が諏訪に入った頃の諏訪湖周辺は一面の萱の原であたといい、そこを御子神達と共に開拓して農業養蚕を広めていったと伝えられています。建御名方神には二十二神がいたとされ、その内信濃の国の開拓に功績があった十三神を若宮社
諏訪大社に祀られる建御名方神
御柱祭で知られる信濃国一の宮諏訪大社は「延喜式神名帳」には「南方刀美神社」として揚げられている古社です。 建御名方神と妃神の八坂刀売命の二神を祀っています。全国各地にある諏訪大社の総本山であり、国内にある最も古い神社の一
諏訪の侵入神である建御名方神
建御名方神が諏訪に入った時この地には、古来より諏訪地方を統べる神がいました。建御名方神と争いになり、戦いは建御名方神の勝利に終わり、敗北した土地神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、支配下に入りこの地方の開拓の協力
御籠祭
御籠祭は、古くから行われてきた祭事で、毎年11月3日の夜、摂社の諏訪神が生島足島神社の本社へ移り、毎週御粥を炊いて生島足島神に献供される儀式で、翌年の4月13日まで続く神事であります。 七夜ごとの24回と12月31日・1
建御名方神の旅の行く末
出雲を追われた建御名方神が、諏訪まで追いやられたとしたら、どのようなルートを行ったのでしょうか。出雲の足跡は因幡から丹後・若狭へ行き越の国へと続いています。そして海路でさらに北上し信濃川を遡ったか、糸魚川近辺から陸路を取