出雲大社北島国造家の歴史10

10.出雲国造北島家の専掌祭事  出雲国造家が北島・千家に両立してから後の出雲大社の神事は、年中を6ヶ月ずつに分けて分掌することになりましたが、北島国造家は神在祭(かみありさい) の行われる10月を頭(かしら)に12・2

出雲大社北島国造家の歴史9

9.出雲国造家の通り名 出雲大社北島国造家は、安元2年(1176)に出雲大社の仮殿遷宮を斎行された第48世国造宗孝臣以来、通り名として「孝」(のり)を用いてきました。 現第80世建孝(たけのり)国造まで実に百数十年を数え

出雲大社北島国造家の歴史7

7.出雲国造北島家と大庭の里  松江市大庭地区は「八雲立つ風土記の丘」があり、また旧国庁跡も発見されていて、出雲国の中心地であったということは定説となっています。出雲国造北島家では、 この大庭の地を出雲国造家発祥の地と伝

出雲大社北島国造家の歴史6

6.出雲国造家の分立 始祖天穂日命以来、第54世孝時国造まで出雲国造家は一統で続いてきました。時あたかも南北朝時代に及び、時代の風潮もあってか、第55世清孝国造の後をめぐって兄弟の間に争いが生じ、 以後北島・千家と分立す

出雲大社北島国造家の歴史5

5.建武中興と孝時国造  第54世国造孝時臣は父泰時国造から国造職を譲り受け、延慶元年(1308)その任に就き、29年間国造職を勤められました。  ちょうどこの頃の元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇は北条高時により隠岐

出雲大社北島国造家の歴史4

4.出雲大社神主職と検校職  出雲大社国造家の長い歴史のなかでは、いろいろな危機があったと思いますが、これから記す事件は一番大きな危機でした。  時代は平家が滅亡して源頼朝が幕府を開いた頃です。頼朝は平家との戦いに勝った

出雲大社北島国造家の歴史3

3.出雲国造神賀詞(かんよごと)の奏上  醍醐天皇の延喜の御世に定められた今でいう法令集は延喜式と呼ばれ、今でも歴史研究の上に大きな役割を果たしています。その延喜式の中に臨時祭式という項目がありますが、 それによって「出

出雲の注目スポット 出雲阿国の墓。

出雲阿国の墓 伝説に満ちた出雲阿国を偲ぶ 歌舞伎の祖とされ、その生涯は謎に包まれいる出雲阿国の墓。 一説では出雲大社の巫女で、本殿修理費勧進の為諸国を巡り、晩年は大社に帰ったという。 今も、芸能・演劇関係者、歌舞伎ファン