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赤名酒造

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤名酒造

飯石郡飯南町赤名23
0854-76-2016
見学不可

銀山街道の宿場町として栄えた赤名の町並みに、昭和4年創業の赤名酒造があります。代表銘柄は「絹之峰」。
中軟水の仕込み水は神戸川の伏流水で、冬は雪深く、寒さが厳しい飯南町において酵母の発育に適した水です。

 

簸上清酒合名会社

 

 

 

 

簸上清酒合名会社

〒699-1832 島根県仁多郡奥出雲町横田1222番地
TEL(0854)52-1331(代) FAX(0854)52-2446
泡無酵母発祥の地として知られる小社は、島根県の南玄関、神話とたたらの里 横田の地に1712年より蔵をかまえる酒屋さんです。
明治43年、町内の酒蔵を吸収合併。当時より銘柄を奥出雲一円の旧名「簸上三郡」からとりと称しています。
地元の風土に根ざした野太い味わいの酒造りが目標。酒造期の11月~3月は寒く雪深く、酒造りには十分な環境に恵まれ、地元で収穫される酒造好適米は改良雄町、
五百万石、神の舞。そして中国山地奥深く流れる斐伊川の伏流水を得、安定した酒質を生み出していらっしゃいます。 
平成8年秋、顕彰碑建立とともに杜氏に就任した出雲杜氏 松本年正氏は就任以来5年連続で広島国税局主催、並びに国税局醸造研究所主催の新酒鑑評会で最高位の金賞を受賞。
その卓越した業は、小社のお酒全てに注がれ、愛飲家の皆様に支持されています。
前述の通り、小社はであり、現在の醸造協会は全国の50%強の蔵元が仕込みに使用。ほとんどの仕込みにを使用されていま。レギュラー酒には主に協会701号を
特定名称酒には協会901号を主に使用し、各々の酒・使用米の性質にあった使い方を生み出していま。
吟醸「玉鋼」、純米大吟醸「たたらの里」は、日本国内唯一地元で生産される日本刀の原料・玉鋼(たまはがね)、そのたたら製鉄より命名。
味に幅があり、野太い腰の強い酒質が身上。
純米吟醸「かたくりの花」、純米吟醸「深山の香」純米「おまちどう」は中国山地、緑山深い情景をイメージし命名。あえて酸味を多くした純米酒で、ボリュームのある料理に最適。
特別本醸造、本醸造「おろちの火祭り」は神話で名高い地元・横田町の夏祭りから命名。コクのある味わいのなかに爽やかさの残るお酒で、燗良し冷や良しです。
日本の競馬史にて名高いオーナーブリーダー、シンボリ牧場・和田家との縁で、そしてその生産馬である七冠馬「シンボリルドルフ号」をイメージしてできた
新ブランド「七冠馬」シリーズを平成8年秋より発売。大吟醸、吟醸、純米に続き、10年秋より特別純米、グレードワンカップを加え、首都圏を中心に競馬ファンに好評。
中山と府中を駆けめぐる。純米吟醸「七冠馬 一番人気」も新馬戦好調のようです!

 

奥出雲酒造

 

 

 

 

 

 

奥出雲酒造

〒699-1701島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1380-1
TEL:0854-57-0888 FAX:0854-57-0080

島根県出雲地方は古くから酒造りが盛んな土地で、その歴史は日本書紀の記述にも残っております。当蔵の所在地である奥出雲町は、山々に囲まれ肥沃な大地と名水の郷として知ら古くから出雲地方の中でもとりわけ良質米の産地として知られております。また、島根県内でも「酒造好適米」の産地としても挙げられ、
島根県の酒蔵で使用する約70%の「酒造好適米」が栽培されております。当蔵では、全量地元奥出雲町産米を使用し、自家精米にてお米を磨き、若き出雲杜氏の手によりお酒を醸しあげております。出雲国風土記に登場する出雲市小境町の佐香神社は酒神の祖が祀られている神社として知られております。
この佐香(さか)が酒の古名に該当し、日本酒の発祥の地としても推察されております。この地を発祥とする出雲杜氏は、出身地が秋鹿郡(あいかご)であるため以前は秋鹿杜氏(あいかとうじ)と呼ばれておりました。当蔵の杜氏も出雲杜氏となり、先人方の技を継承しているひとりとなります。
伝統を重んじ、新たなる伝承を創りだす。当蔵の若き杜氏が酒と対話し、再現性を求めるとともに新たな仕込みへ挑んで参ります。

 

 

 

吉田酒造

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田酒造
〒692-0404
安来市広瀬町広瀬1216
TEL 0854(32)2258
FAX 0854(32)2267
見学不可
品質本位を第一としており、地元の良質酒米と島根県名水百選(歴史の泉部門)にも選ばれた県下随一の水質を誇る名水を仕込み水に全国でも有数の杜氏集団の一つに数えられる出雲杜氏が丁寧に造り上げていらっしゃいます。超軟水の仕込み水を使用し醸造されている為、酒質は非常に口当たり柔らかく、また、飲み飽きしないのも月山の酒の大きな特徴の一つとなっています。日本酒醸造業界で最も権威の有るコンテスト“全国新酒鑑評会”において、1988年の初出品以来、今日までに二桁の金賞受賞歴を誇る
全国でも屈指の銘蔵です。
文政九年(1826年)の創業で、翌年の文政十年(1827年)には山陰地方で最も早く藩公から認可を受けた古い歴史と伝統を誇る酒蔵です。
『月山』の酒名は、かつて名だたる武将達が群雄割拠していた戦国時代に、山陰及び山陽地方を広く統治していた尼子氏の居城『月山富田城』(通称『月山城』)が築かれていた山『月山』の麓に当蔵が有る事にちなんで命名されたものです。
その昔、吉田酒造では藩へ謙譲する特別酒のみにこの『月山』を使用していましたが、今は、常に最高の酒を多くの方々に呑んで頂きたいという思いからこの謙譲酒のみに特別に使用していた“月山“という名前を酒銘として使用してされています。

 

 

 

金鳳酒造有限会社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金鳳酒造有限会社
安来市清井町343
創業明治2年(1869年)
TEL0854-27-0111
FAX0854-27-0112
見学不可

山本喜三右衛門が明治2年「菅井屋」なる造酒座(酒造権利)を買入、酒造業を創業致されました。
創業当時の酒銘は「志ら鹿」その後「緑山」を経て二代目山本嘉四郎氏が「金鳳」とし登録商標とされました。
「金鳳」の酒銘は、古代中国で聖人と共に世に現われたとされる鳥「鳳凰(ホウオウ)」に由来します。
鳳凰は雄を鳳、雌を凰と言い仲むつまじく梧桐(アオギリ)の木に住み自らの姿を泉に映すとその泉は甘い泉となり、その水を飲むとされる不老不死の幻の霊鳥です。
この鳳凰の一字「鳳」に「金」を冠して「金鳳」と致されました。
昭和12年、三代目山本嘉四郎氏が、襲名するはずであった禄郎ですが、36歳の若さで冬の大山で遭難し帰らぬ人となり、長男の士郎は当時まだ9歳。
長じて家業に専念するようになっても父親への敬慕の念は強く、「山は大山、お酒はキンポー」としたコマーシャルのキャッチフレーズは広く親しまれるようになりました。
酒質面では昭和12年の大蔵省日本醸造試験所審査会に於て全国第一位を獲得したのを始め、その後順位付けは行なわれなくなったものの毎年
全国・広島局の鑑評会でも優秀な成績をおさめていらっしゃいます。平成4年の春(特級は平成3年)に長年慣れ親しんだ級別制度が廃止されましたが
昭和35年には島根県で初めての特級酒を発売し、当時から高品質酒に積極的に取り組んでいらっしゃいます。

 

 

 

王禄酒造

 

 

 

 

王禄酒造
松江市東出雲町揖屋484
TEL(0852)52-2010
明治5年(1872)創業
昭和37年の“黄金の井戸”発見は当社の歴史の中で重要な節目になりました。県の工業試験場に水源の調査を依頼して
飯塚博士ら5名の調査団によって探し当てられたのが現在の水源地です。酒水の敵である鉄、アンモニアは皆無で、カルシウム、マグネシウムが豊富に含まれ
しかも地下の凝灰岩層が雨水をろ過するような地層になっており、日量150tもの湧水は枯れることがありません。
この水源地と2km離れた製造場との間は水道管で直結されており、直接原料成分となる仕込水だけでなく、原料米や器具洗浄等のあらゆる工程で豊富に使用されています。

 

 

 

国暉酒造

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国暉酒造

松江市東茶町8
℡ 0852-25-0123
見学可(要予約)・試飲可・販売有り

宍道湖のほとりに、煉瓦の煙突が見える明治7年創業の酒蔵です。江戸時代末期の町屋を改装し仕込み蔵は、松江藩藩主松平家の土蔵を移築した物です。
バーカウンターも有り試飲コーナーも充実しています。1900年代後半までは蔵内にある井戸を使用していましたが、現在では北山山系の山水を運び使用して
いらっしゃいます。島根県内でも硬度の高い中硬水で、硬度が高いと酒の発酵が進みやすくバランス調整が難しいそうです。
代表的なお酒は、船搾り純米で島根の酒米「佐香錦」つかい蕎麦の殻も一緒に挽いて使用していらっしゃいます。

 

 

米田酒造

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米田酒造

松江市南田町41
℡ 0852-23-5517
見学可

松江市の中心地に酒蔵があります。吟醸造りに適したやや軟水の湧水を使用されています。
11月から3月までは、日本酒の仕込み、その後はみりんや地伝酒の仕込み、6月からは梅酒、9月からは酒粕を利用した焼酎造りと、年中蔵は活気に
満ちています。地伝酒とは、出雲地域に伝わる料理酒です。水、米、麹が原料で、純米酒を基に木の灰を使います。1943年頃、米を多く使う地伝酒
は贅沢品として廃し。1991年地元の有志の皆さんの協力で復活されました 。甘みはみりんの半分、旨味は酒の4倍あります。
島根県内の多くの蒲鉾店、和菓子屋さん、料理店で使用されています。
米田酒造の代表的な銘柄は、「豊の秋」また、2004年からは、立春の朝に搾られる日本酒(純米大吟醸)「立春朝搾り」を造られています。
県内の酒販店さんが集まり、その日のうちに消費者に届くように、ラベル貼りの手伝いをされます。

 

 

李白酒造

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

李白酒造

松江市石橋町335
℡ 0852-26-5555
見学不可・試飲可・販売有り

城下町の風情が残る町並みの中に1968年に建てられた李白酒造があります。酒米は兵庫県産の良質な山田錦を一部使用し、その他は地元にこだわり
島根県産を自家精米し、仕込み水は文久3年に作られた2つの大井戸の水を使用されています。中軟水で味わいを感じる水です。
1993年から香港、2000年からはアメリカへと海外輸出を行われ、今ではヨーロッパ各国、オーストラリア、ブラジル、韓国などのも輸出されています。
代表的な酒として、李白華露(CARO)「りはくかろ」があります。
島根県の県花である牡丹の花酵母と、荒神谷遺跡近くで栽培された黒米を使用したお酒です。

 

 

 

 

 

杉玉の由来

酒蔵や酒屋の前にある杉玉。その起源は奈良県桜井市の三輪山に有ります。大国主神が大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の名で魂を
三輪山に鎮めたと伝えられています。ご神木である杉の葉を球状にに束ねたものが酒林(さかばやし)として全国に広まっていきました。
大国主大神が祀られる大神神社には、重さ150㌔の大きな杉玉が掛けられています。日本書紀には、御神酒の醸造を司る掌酒(さかひと)に
活日命(イクヒノミコト)が任命されていたことが記されています。杜氏の祖神として大神神社の北方に鎮座する活日神社に祀られて
信仰を集めています。島根が日本酒発祥に地であれば、奈良は本格的な醸造の発祥地といえるのかも知れません。

 

 

 

 

 

出雲に来たなら出雲の地酒を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道にの炉端焼きにはビールが良く合います。九州では揚げ物に地元の焼酎が欠かせません。お酒と料理はその土地ならではの
味わいがあります。出雲へお越しの際には、日本海の海の幸や中国山地の山の幸などの料理には、なんと言っても地酒が合います。
神話の時代から伝わる出雲杜氏が端正を込めた地酒。味と香りと共に歴史をも感じて楽しんでみて下さい。
まずは、今宵も良いご縁がありますように出雲大社に向けて、捧げて頂いて見て下さい。

 

 

 

出雲杜氏の特徴

 

 

 

 

 

 

 

 

 

島根では、東部を拠点とする出雲杜氏、西部を拠点とする石見杜氏、兵庫からの但馬杜氏が、それぞれの特徴を生かし酒造りを行っていらっしゃいます。
中でも出雲杜氏のレベルは高く、全国から注目を集めていらっしゃいます。以前は、農家の方が冬の出稼ぎとして杜氏をしていらっしゃったようです。
収穫の秋が終わり、冬の訪れと共に、酒造りが始まり、春の訪れと共に酒造りが終わります。そして、田植えが始まります。稲作と酒造りはスパイラルの
円を描くように繋がっています。大正時代より、秋鹿杜氏組合、小境杜氏組合、古曽志杜氏組合、大野杜氏組合と広域化し「出雲杜氏組合」が発足し
独自の資格試験や、講習会を開催しお互いの酒造りのレベルを向上していたようです。

 

 

 

 

島根の酒米の特徴

日本酒の原料は、米と水です。日本酒の味には、米の特徴が大きく関わってきます。酒米は食用米と違い日本酒造りに適した条件を要求されます。
また酒米は、稲の背丈が高く倒れやすい食用米より育てにくいのが特徴です。県内では、五百万石、山田錦などが多く栽培されていますが、最近では改良雄町、神の舞、佐香錦が栽培されています。共通点は背丈が低く育てやすい。米粒が大きく精米しやすいなどです。

佐香神社

お酒の神様をお祀りする佐香神社(松尾神社)出雲杜氏の信仰厚い酒造り発祥に地で、「出雲国風土記」に楯縫郡(出雲市平田町の地区名)の記述には、佐香郷の地名の由来の説明として、多くの神々が集まり、調理場を建てて酒を醸造し、何日も酒宴を続けた後、解散したとあります。
同郷にある佐香神社は酒造り発祥の地といわれ、通称は松尾神社。毎年10月13日には新米を使ったどぶろくの醸造許可が与えられており、大酒樽を前にして、新酒の仕込みに入る直前の出雲杜氏らが醸造の成功を祈願するお祭りが行われます。
京都、神戸の松尾神社は、出雲の佐香神社の流れを汲む神社です。

 

崇徳天皇

白峯寺の北側に崇徳天皇白峯陵がある。天皇や皇后、上皇などの墓所である御陵は、一般に京都や奈良など当時の都の近くに造られている。都から遠く離れた所に造られているのは、下関の安徳天皇陵と淡路島の淳仁天皇陵、そして、ここ白峯陵だけである。崇徳上皇は、平安時代の終わりごろの天皇の位をめぐる争い(保元の乱・1156年)に敗れ、今の坂出市あたり
に流された。伝説によると、都を恋しく思いながらさみしく日々を過ごしていた上皇は、せめて自分の書き写したお経だけでも都の寺に納めたいと願った。しかし、都の貴族たちはこのお経には呪いがこめられていると考え、これを都に持ち込むことを許さず送り返してきた。そこで上皇は、都の貴族たちに深い怨みをいだき「魔王となってこの世を悩まし、乱してやろう」と、らの指を食いちぎり、流れる血で呪いのことばをお経に書いて海に沈めた。その後、上皇は深い怨みを持ち、悲しみのうちに亡くなったという。
上皇の死後数年たって、生前から親しかった西行法師が訪れた時には、上皇の御陵はまだ土を小高く盛り上げただけのそまつなものであった。一晩中お経をあげ、霊をなぐさめていると突然稲妻が光り、怨霊となった上皇が現れ、怨みをのべられた。西行が「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」(意訳:天皇の身分はこの世だけのことです。死んでしまえば、人はみな同じです。
昔の身分や、怨みを忘れて、おだやかにお眠りください)と歌でおなぐさめしたところ、上皇の霊も表情をやわらげ、その姿を消したという。
実際の世も上皇の死後、都では変死する貴族が続出し、天候不順が続いたり、地震もたびたびおこったりするなど不安定な世の中になった。また、政治の中心は貴族から武士に移っていき、戦いが続いた。
当時の人々は、これらを上皇の呪いのせいだと考えて恐れた。
そこで、上皇の怒りをしずめ、成仏してもらうために1191年に、御陵の東側に頓証寺殿が造られた。さらに、1414年に後小松天皇は上皇の成仏を願い、自身で筆を取った額(勅額)を頓証寺に奉納した。
都の皇族や貴族をふるえあがらせたことが嘘のように、白峯御陵は緑の中にひっそりとたたずんでいます。

 

 

平将門の祟り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京のど真ん中。大手町に平将門の首塚というのがあります。平将門の乱にて敗れた将門。その首が飛んできて、首を洗ったのが「首洗いの井戸」、そして、その首を埋葬した場所が「首塚」になったといいます。
ちょっと、怖いお話ですが、これらは伝説であり本当に平将門の首がその下にあるのかどうかは信憑性に欠けるのですが、実はこの首塚をめぐっては本当に平将門の祟り?と思えるような出来事が起きています。
大正12年。平将門の首塚を壊して、大蔵省の仮庁舎が建てられる計画がありました。しかし、その直後から大臣をはじめ、工事関係者が数十人と亡くなっていってしまったのです。さすがに、これは不吉だ!と、いうことで工事は取りやめとなりました。
さらに、太平洋戦争直後、再び平将門の首塚を取り壊す計画が持ち上がります。アメリカ軍が、その場所を整備して駐車場にしようというのです。しかし、このときも工事中にブルドーザーが横転し、運転手の男性が死亡。
その後、アメリカ軍も平将門の祟りの話を聞かされ、首塚の取り壊しを中止することになりました。
現在でも、隣接するビルは、平将門の首塚を見下ろすようなことのないように、窓は設けていないなどの配慮がされているようです。 

 

 

平将門公

 

 

 

 

 

 

 

 

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)とは、平将門が朝廷に反旗を翻し、関東一円を手中に収め、自らを「新皇」と名乗った出来事です。
では、その平将門の乱について、もう少し詳しく見てみましょう。
その頃、朝廷は地方の政治は国司にまかせっきりで、国司は一定量の税さえ納めていれば、あとはやりたい放題でした。
そんなもんだから、国司は税率を勝手にかえて残りは自分の財布に入れてしまったり、任期が切れているにも関わらず居座り、財力や武力を蓄えたり・・・。
こんな状態ですから、地方の治安は悪化していき、様々な人が武装し始めます。小武士の登場です。また、何度も同じ地方の国司となった中・下級貴族がそのまま居座り、小武士をまとめ上げ大武士団の棟梁となるケースも出てきます。
その代表格が桓武天皇の血を引く桓武平氏や清和天皇から出た清和源氏です。
平将門は、上総の国の国司として赴任しますが、任期後もその地に居座り勢力をどんどん拡大していきました。そして、その地の権利を守る為に武士団を形成することになります。
そうやってどんどん強大な勢力を手に入れていく訳ですが、平将門の父、良将(よしまさ)の死をきっかけに相続争いが起こります。
935年に平将門は叔父を殺害。939年には対立する従弟の平貞盛(さだもり)の引渡しを常陸国府が断った為、平将門は国府をも攻撃してしまいます。
国府など攻撃してしまっては、朝廷が黙っている訳がありません。
もう、いいや。行けるとこまで行っちまえ。」と思ったのか?「もしかしたら、日本の頂点に立てるかも?」と思ったのか?わかりませんが、平将門は関東八カ国の国府を次々に攻撃。国司を追放し、ついに「新皇」と自らを名乗ります。
しかし、案の定。朝廷がついに動き出します。藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征東大将軍に任命し、鎮圧の為に派遣。
ですが、結局は朝廷軍が到着する前に平将門は地元の武士、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛により打たれてしまうのです。
この平将門の乱と時、同じくして、瀬戸内海では藤原純友(ふじわらのすみとも)が海賊を率いて反乱を起していました。こちらも、結果は源経基(みなもとのつねもと)らによって鎮圧されます。
この平将門の乱と藤原純友の乱は、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)とも呼ばれます。
この2つの乱はどちらも武士によって鎮圧されたことから、武士のもつ力が注目され始める切欠となっていきます。

 

 

 

 

当時の京都の様子

 

 

 

 

 

そして京都にはこの御霊を鎮めるための神社や寺院が数多く存在し、中でも有名なのは上御霊神社」と「下御霊神社」です。
その後月日は流れ、菅原道真の怨霊騒ぎから12年が経過しようとしたある日、西京七条二坊(平安京の西の端っこだと思ってください)に住む貧しい家の娘「多治比文子(たじひのあやこ)」の枕元に菅原道真の霊が現れ…しかし頼まれても貧しい身分の者には右近馬場に祠を建てるなどできないので、とりあえず自分の家の庭の片隅に祠を建てて菅原道真を祀ることにします。(942年)そしてその5年後、今度は近江の国(現在の滋賀県)の神社の息子「太郎丸」にも「多治比文子」と同様のお告げがあり、それを知って驚いた太郎丸の父親は右近馬場にある「朝日寺」の住職に事情を告げて相談し、「多治比文子」の家の庭にあった祠を右近馬場に移し、菅原道真を祀る社(やしろ)を建てます。(947年)この話を知った当時の右大臣「藤原師輔(ふじわらのもろすけ・忠平の息子)」はその社を増築し(952年)、これが現在の「北野天満宮(きたのてんまんぐう)」となります。
ただ今までの話からも分かるとおり、当初の「北野天満宮」は「学問の神様」としてではなく、「御霊」「雷神」として祀られておりました。
つまり北野天満宮や太宰府天満宮は菅原道真の御霊を鎮めるために建てられた神社ってことです。
しかしその後の986年、「慶滋保胤(よししげのやすたね)」が北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神を以て文道の祖、詩境の主」と語り、またその後の1012年、当時の文章博士「大江匡衡(おおえのまさひら)」が同じく祈願文の中で「文章の大祖、風月の本主」と言った事から、この後、菅原道真は「雷神」ではなく「学問の神様」として祀られるようになったんだそうです。

 

 

 

 

 

菅原道真公の怨霊

 

 

 

 

 

この落雷事件で今までの不幸な出来事は全て菅原道真の怨霊による祟りであると信じられ、朝廷はもう大パニック。
「菅原道真の怨霊は雷神となり、この日本に神罰を与えようとしているに違いない!!」
この落雷事件を境に「醍醐天皇(だいごてんのう)」は体調を崩し天皇の位をわずか8歳の皇太子「寛明親王(ひろあきらしんのう)」に譲り「朱雀天皇(すざくてんのう)」が即位します。(930年)そして譲位の1週間後、醍醐天皇はわずか46年の生涯に幕を閉じてしまいます。(930年)またその後、藤原時平の長男「藤原保忠(ふじわらのやすただ)」も物の怪に取り憑かれ、僧に祈祷をさせたが、そのお経の言葉の中に「宮毘羅大将(くびらたいしょう・仏教を守護する十二神将の一人)」とあったのを…「我を縊るぅ!?(くびる・首を絞めて殺すこと)」当時の貴族達、特に藤原氏がいかに菅原道真の怨霊を恐れていたかが分かります。
こうして菅原道真の予告通り、菅原道真の左遷に少しでも関係した者のほとんどが死亡してしまいます。
ただ、藤原時平の弟である「藤原忠平(ふじわらのただひら)」だけは大宰府での生活を余儀なくされていた菅原道真に対して励ましの手紙を送ったりしていたので菅原道真からは祟られていません。
藤原忠平はこの後、摂政・関白となって藤原北家を支えていきます。
そして菅原道真は「早良親王(さわらしんのう)の怨霊」と肩を並べる「最強の怨霊」として平安京の貴族達に恐れられます。
強力な怨霊を「御霊(ごりょう)」と言います。
有名な御霊には「早良親王(さわらしんのう)」「藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)」や井上内親王(いのえないしんのう)」と「他戸親王(おさべしんのう)」の親子、そして今回の「菅原道真」で、このほか何名もいます。

 

 

 

菅原道真公

菅原道真の復讐劇が始まります。以下にそれらを紹介しますと…菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国(ふじわらのさだくに・藤原南家の人で『相関図』には載せてません)」
が40歳の若さで急死。(906年)菅原道真の左遷が決定した際、「醍醐天皇(だいごてんのう)」に直訴するため裸足で駆けつけた「宇多上皇(うだじょうこう)」の行く手を阻んだ「藤原菅根(ふじわらのすがね・藤原南家の人で『相関図』には載せてません)」が雷に打たれて死亡。(908年)菅原道真を左遷に追いやった張本人「藤原時平」の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか逆に蛇となった菅原道真に「控えよ!!」と一喝されて祈祷師はスゴスゴと退散してしまい、とうとう藤原時平は狂死。(909年)貴族達の集団職務放棄の中心人物だった「源光(みなもとのひかる)」が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。(913年)醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった「保明親王(やすあきらしんのう)」が21歳の若さで急死。(923年)保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった「慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)」が5歳で死亡。(925年)このような怪奇現象が続いたため、遂に朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるためにと、菅原道真を大宰府へ左遷するという詔に関係する全ての書類を焼き捨てますが、その火が周囲に燃え移って広がり、その場にいた僧侶や役人を焼死させてしまうという事件まで起こります。
その後も国内では疫病や干ばつなどが相次いで起こり、その干ばつ対策の会議中であった930年6月の午後1時頃、会議場であった「清涼殿」に落雷、大納言であった「藤原清貫(ふじわらのきよつら)」など5人の貴族・女官が
死傷するという事件まで起こります。

 

 

 

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予約受付

防火基準適合マーク 当ホテルは防火基準適合表示要綱に基づく表示マークの交付を受けております。

交付日
 平29年8月1日
有効期間
 平成32年7月31日まで
公付機関
 出雲市消防本部

  • 住所
    〒693-0001
    島根県出雲市今市町864-5
    TEL 0853-23-1700
    FAX 0853-22-9620
  • チェックイン・アウト
    チェックイン時間  16:00より
    チェックアウト時間 10:00
  • 駐車場
    駐車場無料 大型車可