山陰の古事記謎解きガイド カテゴリの一覧表示

Page 1 of 212

因幡の白兎を救った大黒様が抱えていた袋の中身

「因幡の白兎」の神話は、広く知られていると思います。ずる賢い兎が痛い目に遭う話ですが、その兎を助けたのが大黒様だったという話です。
この大黒様が、大国主大神のことです。「因幡の白兎」は、「古事記」の中で大国主大神が物語に初めて登場する一場面です。
大国主大神は、おおくの兄神達の荷物を持たされ、兄神達に遅れをとりながらも、とても美しいと評判の姫の所に求婚をしに行く途中で兎と出合います。
神話のうえでは、兄神達の荷物の入った袋を持っていた事になっていますが、福の神と慕われる大黒様だけに後世では、幸せをもたらす福袋を担いで
いたとの言い伝えに変わってきています。

 

 

 

 

 

 

 

出雲国風土記

ほぼ完全な形の「地誌」
風土記は奈良時代の和銅6(713年)に出された政府の命令に基づき、国ごとに編纂された地誌です。細かな地名の由来や産物、動植物、伝承
などが記されましたが、比較的まとまった形で現在まで残っているのは、出雲国、播磨、豊後、肥前の計5つしかありません。中でも出雲は唯一
ほぼ完全な形で残っており、古代の地方の姿を詳しく伝える貴重な資料となっています。

 

 

 

国引き神話

『出雲国風土記』の最初、「意宇郡(おうぐん)」の冒頭に、出雲国の成り立ちが書かれています。いわゆる、「国引き神話」です。これは、
『古事記』や『日本書紀』には書かれていない、出雲独自の神話です。
  『風土記』によれば、「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」が国をつくるのに、出雲国は小さすぎるので各地から引いてきて継ぎ合わせた、
と記されています。継ぎ足されたところは島根半島の部分です。
  東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸から、西端の「支豆支の御埼(きづきのみさき)」は朝鮮半島の新羅から、
その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引いてきたと記されています。
これをつなぎ止めた綱が米子の弓ヶ浜と出雲の長浜で、その綱を止めた杭が大山と三瓶山だと言われています。

大蛇退治に使われた八塩折の酒

「古事記」の印象的な場面として記憶に残るイザナギ・イザナミの黄泉比良坂の別れ。ここで、黄泉の国から逃げるためにイザナギは、蔓草と髪飾りを投げ捨てる。すると髪飾りはエビカズラ、即ち山葡萄となったと言うことです。
古来「葡萄」は「エビ」と読んだ。現在の葡萄は西アジアが原産だが、山葡萄は古くより日本の山にも自生しており、神話の里「出雲」の低山でもよく見かける。

この山葡萄を使って造っているワインが、岡山県蒜山高原のひるぜんワインです。
深みのある色と野性的な香りの美酒です。

「山葡萄 赤」720ミリリットル 3.885円

お取り寄せも出来ます。

 

 

 

「古事記」時代の宮中料理。

近年、考古学調査や、文献研究が進み、古事記編纂時代の貴族生活の様子が分かってきたそうです。

それによりますと、「日本料理の原点は奈良にあったということです。
現代人が考えるご馳走は、奈良時代にはすでにあったそうです。

平城京で古事記編纂に携わった太安万侶ら宮中人が食べたかも知れない料理を、調べてみました。
飯                   高盛飯
割鮮(あたらしきをつくる)     鯛、醤酢、搗蒜、山芋
膾                   鮑、雲丹、交作
羹                   鴨、芹、柚子
生宍                 牛膾
炙り                  海老、猪鮓胡麻油焼、しちゃ菜
茹                   海鼠山芋詰
酒                   清酒

「牛膾」古事記成立以前は、牛は禁じられておらず、さかんに食べられていたようです。
「遺跡から出土した寄生虫卵によって、」宮中人が肉の生食をしていたことが分かったようです。
鴨、鯛、鮑、雲丹、海老、海鼠などは荷札である木簡」から食材であったことが分かりました。
猪の肉の熟れ鮨は、魚の熟れ鮨がまだ伝わっていない時代の珍しい一品。
平城京時代は基本的に料理には味付けせず、塩と酢が添えられていた模様です。
各自が調味をしていたと思われます。黒塗りの器やガラス器はすでにあったようです。

搗蒜を作る。(ニンニクを乳鉢で突き崩せば、ニンニクは香り高く、殺菌、殺虫効果があったので薬味としてよく使われていた模様です。























「出雲王国パワースポット」巡り参考コース。

出雲に点在するパワースポットを巡るコースです。

サノオの魂 船通山






























































韓竈神社








































須佐神社

国譲りの、その後(スセリ姫とシタテル姫)

「スセリ姫が大山の裾野で生涯を終えた伝承」はご紹介しましたが、その直ぐ近くに、「ワカヒコと結婚したシタテル姫
が暮らした」と伝えられる地があります。シタテル姫はオオクニヌシの娘でから、御神体である大山を直接見ることは畏れ多いと、この地を選んだとのことです。
妻木壱宮神社(むきいちのみやじんじゃ鳥取県西伯郡大山町妻木)
大山と神社の間にそびえる孝霊山に遮られて、この神社から大山を直接見ることはできません。シタテル姫はイザナミが命を落とした火の神」を難なく生み、そのことから安産の守り神として広く慕われています。
大山を直接見ることのできない地はほかにもありますが、それにもかかわらずこの地を選んだのには、父オオクニヌシと別居したスセリ姫の存在が影響していたかもしれません。
シタテル姫の母親が宗像系のタギリ姫、祖母がアマテラスであることを考えると、古代のトップレディーの間に展開されたミステリアスな何かを感じさせます。








妻木晩田遺跡(むきばんだいせき鳥取県西伯郡大山町妻木)

唐王神社と妻木壱宮神社は大山の麓に建っていますが、両神社の1㎞ほど背後に高台があります。この高台が妻木と呼ばれる一帯で、古墳や住居跡が点在し「むきばんだ遺跡」公園となっています。
発掘されたのはごく一部の地域ですが、妻木の高台から東・西・南に、紀元前100年から紀元300年頃のかけての広大な住居跡が広がっていたようです。
特に紀元100年頃には、竪穴式住居の数が最も多くなったそうです。
この頃から200年代半ばまでが、古代出雲王国が興隆し消滅した時期のようです。
考古学によれば、300年代に妻木の集落は突然衰退したそうですが、古代出雲王国の消滅と関係があったのかも知れません。妻木は国指定の史跡となっており、想像復元された古代の建物や資料館が整備されています。
古事記に取り上げられていませんが、神々の時代に火との営みがあった場所なのです。紀元前100年頃から火とが住み始め、紀元300年頃に忽然と火との姿が消えているのです。
この時期は大和朝廷が全国統一を成し遂げた時期とほぼ一致します。











































国譲りのその後(スセリ姫とシタテル姫)

山陰地方中部の支配権をアマテラスの子に譲り渡したオオクニヌシは、幽界に身を引いたことになっています。
それは、スセリ姫と余生を静かに送った事を意味するのでしょうか?
大山裾野にある唐王神社(鳥取県西伯郡大山町)に、その後の二人の足跡が残されています。

オオクニヌシの国譲りは、高天原で大きな評価を得ました。
そこでタカミムスヒは「お前のこのたび我々の臣となったが、地元の女が妃では今ひとつ信用できぬ。我が娘ミホツ姫を嫁にし、部下を率いて末永く我らの子孫を守れ・・・」と、オオクニヌシが天つ神の一族になれるように取り計らいます。
社伝は、大国主神はこの扱いに感涙を催したと記しています。(唐王神社社伝)

これは、唐王神社関係者が日本書紀から抜粋したようですが、書かれている住所は島根県汗入郡唐王となっています。明治初期、鳥取県西部は島根県でしたので、それ以前に書き写されたと考えられます。

さて、オオクニヌシが感激したのは一時で、スセリ姫の扱いに困ったはずです。なにしろスサノオの娘で、正妻で、オオナムジがオオクニヌシになれたのは、
彼女のお陰なのですから。古事記では、「オオクニヌシとスセリ姫は、仲良く暮らしました」としています。
でもヤチホコの妻問いでは「夫が逃げ出したくなる程の嫉妬深い女」です。
つまり、「男にとって鬱陶しい女」だと強調していました。
唐王神社の社伝に、「オオクニヌシは永く日隅宮(出雲大社)に鎮座し、スセリ姫は比の地に鎮座す」とあり、二人が別居していたことを伝えています。
オオクニヌシは国を譲ったあとで、スセリ姫を捨てたのでしょう。ヤチホコの妻問いでのスセリ姫評は、この結末が仕方ないことだと暗示していたのではないでしょうか。
同社伝は、「オオクニヌシとスセリ姫は、美保の崎(島根半島東端の美保関町)から船でやって来た。彼女が暮らすことを納得したのは、三度目の転居地であった」としています。
政略結婚ですから、オオクニヌシも後味が悪かった事でしょう。
妻の「納得して住む場所捜し」に、とことん付き合ったようです。

広大な裾野に唐王神社が建つ大山は、火神山と呼ばれ、出雲風土記の「国引き」で杭とされた山です。「神紙志料」(巻一七)佐比売山(三瓶山)神社の條に「その昔、オオクニヌシ・スクナブコナ・スセリ姫が、出雲から伯耆国大神山へ来、山頂から未開の国土を見渡し国作りをお考えになった場所」と記されているそうです。
この由来により大山は、山そのものがオオクニヌシの御神体とされています。

大神山神社 奥宮(鳥取県西伯郡大山町大山)
























































































オオクニヌシの国譲り

再度、タケミカヅチが来て、オオクニヌシに尋ねます。
「二人の子供は恭順の意を示したが、貴方の考えはどうなのですか?」
オオクニヌシは答えます。
「子供達と同意見です。この国の全てを献上しましょう。
だが、私の住まいとして、天つ神の立派な宮殿のような建物をお造り下さるのなら、幽界に身を引いて静かに暮らしましょう」
これを確認したタケミカヅチは高天原に帰り、葦原中国(山陰地方中部)の平定と帰順を報告しました。

古事記通りに解釈すれば、オオクニヌシは弱腰で国を譲り、その代償として建ててもらったのが、出雲大社(島根県出雲市大社町)となります。

しかし、日本書紀の巻第二神代(下)には、強気のオオクニヌシの姿が記されています。国を譲るかとの問いに対し、「俺が元々いるところえ後からやって来て、
何を言うか」と追い返します。
すると様々な好条件を提示されて合意形成となるのですが、その中に御殿(出雲大社)の建設があります。
弱腰か・強気のいずれにせよ、高天原側が御殿を建てたようです。
ところが、オオクニヌシはこの建物には住まないのです。
「建物を造ってくれるのなら、幽界に身を引く」と言っているからです。
オオクニヌシは、なぜ住みもしない建物を要求したのでしょう。
学問の世界でもこの部分は謎のようです。

2月に遷宮前の最後の一般拝観が、行われます。

詳しくは、℡0853-53-3100(6:30~20:00)までお問い合わせ下さい。

タケミカヅチとコトシロヌシ

ついにアマテラスは、武力に訴えます。勇猛なタケミカヅチを使者としたのです。
タケミカヅチは、出雲の国の伊那佐の浜(出雲市大社町稲佐の浜)に来て「この国は、アマテラスの息子が統治知するが、どうだ?」と尋ねます。
この問いに、オオクニヌシは「私には、答えられない。息子のコトシロヌシが答えるが、御大の前(島根半島東端の美保関町)へ漁に出かけている」これを受けたタカミカヅチは「ならば直ぐに連れてこよう」と迎えを出しました。
コトシロヌシは、同じ問いに対して「分かりました。この国はアマテラスの御子に奉りましょう」と言うとその船を踏んで傾け、天の逆手を打ち、船を青葉の柴垣に変えてその中に隠れてしまいました。
























コトシロヌシをお祀りするのが、美保神社(松江市美保関町美保関)です。
コトシロヌシの別名は「えびす様」で全国各地のえびす社3.385社の総本山です。
もう一柱の祭神がミホツ姫です。神社の名称はこちらからきていると思われます。
コトシロヌシはオオクニヌシの子供ですが、母親はカムヤタテ姫とされています。
カムヤタテ姫=タギリ姫の説もあります。
ミホツ姫はタカミムスヒの娘で、国譲りの後にオオクニヌシの妻となっています。
コトシロヌシは国譲りの決断を下した人物です。
その人物が、父親の後妻と一緒に祀られています。
その訳は・・・?この神社も何となく謎めいています。

古事記には、柴垣に隠れた  コトシロヌシのその後は書かれていません。

















葦原中国平定「アメノホヒとワカヒコ」

次々と送り込んだ高天原系の神がオオクニヌシ側に取り込まれ、高天原側は、いらいらしているだんかいです。
「アメノホヒとワカヒコ」

オオクニヌシの国造りがかなり進んだ頃、アマテラスは「安定した食糧生産が出来るあの国(出雲地方)は、長男のオシホミミに統治させる」と、息子を派遣します。ですがオシホミミは「あの国は反抗的だ」と途中で引き返します。

そこで、タカミムスヒ(皇室系独神)とアマテラスは高天原の重臣を天の安河(会議場)に招集し「あの国には反抗する国つ神(指導者)がいる。誰に平定させようか」と会議を開きます。
その結果次男のアメノホヒ出雲国造(出雲大社、神主、千家の祖神)に決まりました。
しかし、アメノホヒはオオクニヌシに懐柔されてしまいます。三年経っても帰ってきません。
そこで再度会議が開かれ、アメノワカヒコ(出雲系の神)を派遣します。ところが彼は、オオクニヌシとタギリ姫の娘シタテル姫と結婚し、国王なろうとの野心を抱いていて、八年経っても帰ってきません。業をを煮やした高天原は連絡役を派遣します。しかし、この連絡役が殺されます。
怒ったタカミムスヒは、アメノワカヒコを殺します。この後「タカヒコネ」の説明がありますが、詳細は省略します。
タカヒコネは、オオクニヌシとタギリ姫の子で、シタテル姫の兄です。

ここでの話はこの後にお話しする国譲りの導入部、開戦に到る経緯説明です。

根の堅州国のエリアはどこ?

山陰地方の中心部

松江市から米子市まで、南は日南町辺りまでだと思われます。

オオクニヌシ「スクナビコナと御諸山の神」

米子市内にはもう一カ所、スクナビコナを主祭神とする。
天神垣神社(米子市淀江町福岡)があります。
戦国時代、兵火のより焼失したのですが、天正年中に再建されたものです。
焼失前は大社で、社領地があり広大な神社だったと伝えられています。
神社周辺には、数百の古墳群があり一帯は古来から多くの人が住む地であったことを物語っています。
境内にある日本最大の石馬8体長1.5メートル、国の重要文化財指定)の出土が、この地が要であったことの証だと思われます。

一人になったオオクニヌシが不安を漏らすと、海上を照らし近寄ってきた神が「私の御霊を丁重に祀るなら、共に国作りを完成させよう」といいます。
これが御諸山(三輪山)に鎮座する神です。この後の「オオトシの神裔」は省略します。
オオトシは、スサノオとカムオオイチ姫の間に生まれた子とされています。



























天の真名井(鳥取県米子市淀江町高井谷)

天神垣神社から西へ1㎞程の所に、天の真名井があります。
古事記では「高天原にある神聖な泉」としていますから、一般庶民の住む葦原中国にはないはずです。

しかし、全国的に豊かな沸き水の水源にこの名前が付けられています。

日量2.500トンの水量があります。
出雲大社にも同じ名前の天の真名井があります。

オオクニヌシ「ヤチホコの妻問い」「スクナブコと御諸山の神」

ヤチホコの妻問い

ヤチホコはオオクニヌシの別名とされていますが、本来は別の神だったという説もあります。ヤチホコは、高志の国(北陸地方)のヌナカワ姫を口説きに出かけ、
苦労して思いを達します。

要するにオオクニヌシは女性に対し、まめな男であったと言うことです。ここでは、ヌナカワ姫でけとのお話ですが、「オオクニヌシの神裔」には、タギリ姫・カムヤタテ姫・トトリ姫との関係が記されています。
古事記には、オオクニヌシの多情な性格を伝えた上で、正妻スセリ姫が嫉妬深い女性であることを更に強調しています。

スセリ姫の嫉妬に耐えきれなくなったオオクニヌシは、大和に行こうとします。行く先が大和である事の説明はありません。
オオクニヌシは「俺がいなくなったら、寂しい思いをするぞ」と捨て台詞投げ、スセリ姫は「男の貴方は、あちこちに女性がいるでしょう。でも女の私にとって男性は夫の貴方だけ。さあ二人で抱き合いながら、お酒を飲みましょう」と色仕掛けで誘い、その後二人は抱き合って、仲睦まじく暮らしましたとなっています。

スクナビコナと御諸山の神

この後オオクニヌシは、御大の御前(島根半島東端の美保関町)でカムムスヒの子スクナビコナと出会います。カムムスヒから兄弟として国作りせよといわれ、二人は協力しますがスクナビコナは突然いなくなります。

古事記にはいなくなった場所の説明はありませんが、日本書紀に「出雲の熊野の岬から常世8長世不老の国)に去られた。また粟嶋(鳥取県米子市彦名長)
で、粟茎によじ登って弾かれて常世に行かれたともいう」と記されています。
粟嶋は当時は島でした。出雲風土記に意宇郡の島」として紹介されています。
現在は弓ヶ浜半島の付け根で、当時の島は平地の中の小山(標高38メートル)になっています。
190段弱の急な階段を登った山頂に、クスナビコナを祭神とする粟嶋神社があります。

地元に息づく八神姫伝承!!

御井神社や阿蛇萱神社の存在は、ヤガミ姫が因幡と出雲の間を行き来していたことを意味します。170㎞近い距離ですから、女性の足ですと5~6日の旅です。彼女が行きも帰りも休んだとの伝承が残る温泉があります。

湯ノ川温泉(島根県出雲市斐川町学頭)
日本三大美人の湯だそうです。温泉地域内に八神神社がありますが、この神社は故事にちなんで湯の川温泉の有志の皆さんが作った物で、神社庁に関係する物ではありません。










ヤガミ姫は、因幡へ訪ねてきた出雲の若者の中からオオナムジを選びました。美しいと評判ですが、出雲の若者達が婿にになりたいと押し掛けて来るのですから、ふつうの娘ではなかったはずです。彼女の父親は因幡国一帯を取り仕切る実力者だったのでしょうか?
ヤガミ姫の実家は、鳥取市用瀬町安蔵と伝えられています。

ヤガミ姫の崩所と伝えられているのが、売沼神社(鳥取市河原町曳田)です。
売沼神社は、曳田川と先代川の合流点から、曳田川を少し遡った所にあります。川が神社のある場所で大きく曲がっており、社地としては不自然な感じがします。元々は川向こうの山の中腹にあったらしいです。
また、その山にはヤガミ姫の御陵とされる古墳があるそうです。

売沼神社より少し北の倭文(鳥取市)は、オオナムジが恋文(恋歌?)をしたためた場所。倭文の対岸の円通寺(鳥取市)は、お寺ではなく地名です。
オオナムジとヤガミ姫が思いを通じさせた場所と伝えられています。

用瀬の少し北が智頭町で、律令時代には、イアナギが禊祓をした時に生まれたチマタと同じ名前の駅がありました。




















































大国主命ーヤガミ姫のその後ー

ミイの神の後日談は、90㎞東の阿蛇萱神社(鳥取県米子市橋本)にあります。
阿蛇萱神社の由緒には、以下のように書かれています。

古事記によれば、オオクニヌシノミコトは因幡の白兎を助けた縁でヤガミ姫と結ばれ、出雲の直江でタギキ姫が生まれ給う。因幡の国へ里帰りの途中タギキ姫は榎原郷橋本邑の榎の俣に指を挟まれ此処にとどまり、鎮守神として祭祀るされた古い古社です。
この由緒では、タギキ姫がミイの神と同一の神かどうかは分かりません。
鳥取県神社誌の阿蛇萱神社の由緒には、以下のように書かれています。

タギキ姫はオオナムジの御子なり。母はヤガミ姫と申す。神代の昔出雲の国直江の里にて誕生あり。
ヤガミ姫因幡に帰らんととてオオナムジと共に歩行し給う時に、御子タギキ姫を榎原郷橋本村の里榎の俣に指鋏て
長く置き給いしときに、我は木俣神なりと申し給いて宝石山に鎮座し給へり。

ここではキノマタの神であることを明記しています。
両親と因幡へ帰る途中、この地の榎に指を挟まれ立ち往生し、結局この地で生涯を終えたということです。
この神社は、かつては非常に大きな神社だったようです。

古事記とは関係ありませんが、宝石山の宝石が、写真の鳥居前の石です。
言い伝えでは、「昔、宝石天より降り一夜に出現、降りし三宝石は、村中に二石、神社に一石、それ故宝石山と称す」
とあります。天から降ってきたということは、隕石なのかも知れません。
































オオクニヌシ「根の国訪問」後日誌

他方、因幡で婚約したヤガミ姫ですが、御井神社(出雲市斐川町直江)に消息が伝えられています。御井神社の由緒には、以下のように書かれています。

御井神社は、古事記及び風土記等日本最古の史書十三の文献に記された由緒ある神社である。当社が安産の神また水神の祖であるととの謂われは、記紀に記された次の故事による。オオクニヌシ大神は因幡の白兎の神話の時、むこうで八神姫という心姿の美しい女神を愛され、姫はやがて身ごもられた。臨月となられた八神姫は、背の君に会いに出雲大社へ行かれたが、会わずに引き返された。そして神奈火山の麓直江の里まで帰られたとき産気づき、やがて玉のような御子を挙げられた。そこで三つの井戸(生井・福井・綱長井)を順次掘り、御子を産湯させてから木の俣に預け母神のみ因幡に帰られた。これにより御子を木の俣神または御井神と申し上げ、安産と水の守護神として全国から信仰を集めています。
御井神社には、御子(ミイの神)のその後に関する説明はありません。

綱長井                                      福井


生井










御井神社の近くに、1985年大量の銅剣や銅鐸が出土しました荒神谷遺跡(島根県出雲市斐川町神庭西谷)があります。
出土品の製造は弥生時代中期頃後半とされていますが、はっきりしません。
年代的には、紀元頃から紀元200年代後半の間ということになります。
この発掘により「神話の世界」と「考古学の実物」が重なったのです。


オオクニヌシ「根の国訪問」

オオクニヌシがスサノオのところにやってくると、娘のスセリ姫が対応します。
娘は一目惚れして二人は結ばれ、その後家の中に招き入れ、父親に紹介します。
スセリ姫とは、なんと積極的で、行動力のある女性なのでしょう。

ところでこの舞台は、根の堅州国で、地名は出てきません。
最後の場面で黄泉比良坂が出てきますが、それは国の出口という扱いです。
スイサノオの宮殿は、どこにあったのでしょうか?
揖屋神社辺りから船通山までのどこかにあったのかもしれません。
ヒントは、堅州=堅い砂州=川の州だが頑丈で安全な地?
そんな場所が、あるのかもしれません。

スサノオはオオナムジを一目見るなり「これはアシハラノシコオだ」と言い、その夜は蛇のいる部屋に寝かせます。
スセリ姫は、蛇の害を祓う被布を「蛇が襲ってきたら、これを三度振って打ち払いなさい」と渡します。オオナムジはその被布を使って安らかに眠ります。
(被布とは、古代女性が首から胸に長く垂れ下がった薄い布)
柚木の夜はムカデと蜂の部屋ですが、妻からムカデと蜂を祓う被布をわたされ、オオナムジは、無事に過ごします。
そこで、スサノオは野原に射った矢を拾ってこいと命じ、オオナムジが捜しに行くと周りに火をつけます。
オオナムジが困っているとネズミが現れ、穴に隠れるよう教えます。火は穴の上を通り過ぎ、そのネズミが矢を咥えてきます。
夫が焼け死んだと思ったスセリ姫は、泣きながら葬式の道具を持ってきます。同じ思いのスサノオが野原に行くと、オオナムジが矢を持って現れます。
これを見たスサノオは、部屋で頭の虱をとるよう命じますが、頭はムカデだらけです。
スセリ姫は夫に椋の実と赤土を渡します。オオナムジは椋の実を噛み砕き、赤土を口に含んで唾を吐き出します。スサノオは、ムカデを噛み砕いて唾を吐き出している野だと思い、心中従順で可愛い奴だと思いながら眠ってしまいます。

そこでオオナムジはスサノオの髪を部屋のあちこちにくくりつけ、戸口を大石で塞ぐと、スセリ姫を背負い太刀と弓矢と琴を待って逃げ出します。
ところが琴が樹にに触れて大きな音を出します。この音で目を覚ましたスサノオが立ち上がろうとすると、建物が壊れます。
スサノオがくくりつけられた髪をほどいている間に二人は遠くに逃げます。
二人を追って黄泉比良坂まで来たスサノオは、遠くのオオナミジに呼びかけます。「お前が持つ刀と弓矢で腹違いの兄弟を始末し、オオクニヌシとなって娘スセリ姫を正妻とし、宇迦 の山(出雲大社の東北の御崎山)の麓に太宮柱を深く掘り立てて、空高く千木をそびやかした宮殿に住め」

オオクニヌシーヤソガミの迫害2-

B佐太神社(島根県松江市鹿島町佐蛇宮内)
サダノオオカミ=サルタヒコとの説明があります。
しかし、この説は江戸時代の国学者が唱え、その後一般的になったそうです。
それ以前は別神と考えられていたそうです。出雲風土記はその件については、全く触れていません。































オオクニヌシーヤソガミの迫害ー

手間での撲殺失敗を知ったヤソガミは、オオナムジを山奥まで追いかけ、今度は裂いた木の割れ目に挟んで殺します。
二度目の殺害場所は、分かりませんが母親が探し出して助けたと書いてあることから、そんなに遠方ではないと考えられます。
日南町誌によると、赤猪岩神社と同様の内容が、書かれています。

A 大石見神社(鳥取県日野郡日南町上石見)
ヤソガミの襲撃を恐れ、ヤガミ姫と共に山奥に入り込んで、隠れ住んだ」としています。古事記ではヤガミ姫を伴っていませんが、南部町から山奥に逃げれば日南町に向かうことになります。
上石見は日南町の最南で中国山地の分水嶺、つまり伯耆国の最も奥地です。
今は、のどかな高原の盆地ですが、オオナムジの頃は昼なお暗い鬱蒼とした森に覆われていたのだろうと思われます。
裂いた木の間に挟まれた場所・・・・何となく納得出来ます。

この後、母は二度も襲われたオオナムジを、木の国(紀伊の国・和歌山県)のオオヤビコ(家屋の神、スサノオの子供とされるイタケルの別名)
の元へ逃がします。しかし、ここへも追っ手が来ます。オオヤビコは、木の俣を潜らせてオオナムジを逃がし、「スサノオのいる根の堅州国に行け」と言いました。
ところで、南部町手間でオオナムジの看病をしたカムムスヒの娘キサガイの姫の子供が、佐太神社の祭神サダノオオカミです。

スサノオと関係の深い神社(松江エリア2)

E  熊野大社(松江市八雲町熊野)
出雲国の一宮です。主祭神はスサノオですが。この神社の尊称の、カブロギ・クマノノオオカミ・クシミケヌノ・ミコトと書かれています。
右手に妻のイナタ姫を祀るイナタ神社、左手の母イザナミを祀るイザナミ神社があります。
出雲の国の一宮が、出雲大社えはなく熊野大社ということは、オオクニヌシノよりスサノオが偉大な神ということになりますが、神が鎮座したのは、神代の時代
と伝えられています。



Page 1 of 212
予約受付

防火基準適合マーク 当ホテルは防火基準適合表示要綱に基づく表示マークの交付を受けております。

交付日
 平29年8月1日
有効期間
 平成32年7月31日まで
公付機関
 出雲市消防本部

  • 住所
    〒693-0001
    島根県出雲市今市町864-5
    TEL 0853-23-1700
    FAX 0853-22-9620
  • チェックイン・アウト
    チェックイン時間  16:00より
    チェックアウト時間 10:00
  • 駐車場
    駐車場無料 大型車可